【御免富ってなに?】
寺社は例外で、享保一五年に行われた京都・仁和寺の興行以降、「御免富」と呼ばれて行われるようになる。その背景には、財政難にあえぐ幕府が、それまで負担していた神社仏閣の修理費を、寺社みずからに捻出させるという目的があった。そして、明和から天めい明期(一七六四〜八九)にかけて、さかんに行われた御免富興行は、著修を禁じた「寛政の改革」で一時衰退するが、天保期(一八一二○〜四四)には最盛期を迎えることになる。この時代、「江戸の三富」と称されたのが、谷中・感応寺(天王寺)と湯島天神、目黒不動尊の富識興行である。この興行は江戸の名物にも数えられ、土産として札を買うものもいたという。そして、文政の頃には一〇〇〜一五○両(約六○○万円)だった当選の最高額が、天保期の湯島天神では、一○○○両(約四○○○万円)までつりあがった。しかしこの富蕊も、講元と仲買が手を組み、富札を買い占めて町人に暴利で売る「隠富」が横行するようになったため、「天保の改革」で厳しく制限され、ついに幕が引かれたのである。現在も寺社の柱などに貼られる「千社札(納札)」は、寛政一一年(一七九九)に、江戸で禁止令が出るほど大流行した。もともと千社札は、自分の名前や屋号などを書いたお札が寺社に貼られている間は、そのお堂に「お篭もり」しているのと同じだけおん消一の恩寵を受けられるという民間信仰によっている。